社史

ガラスの錬金術

ウェンチュナ近郊の小さな町ロスソシュに、40年以上続くガラス工場”Edwanex”「エドヴァネックス」がある。ここでは創業以来、装飾用ガラスやガラス容器などが製造されている。創業者は、芸術家の魂を持つ職人エドヴァルト・ヴォンシコフスキ。彼は厳しいビジネスの世界を力強く歩んできた。彼の工場に息子のダニエルが加わり、新しいアプローチや家族経営ビジネス発展のアイデアをもたらした。

(聞き手:アレクサンドラ・ビシュチャト、写真:マルチン・ピェトルシャ)

 

エドヴァルト・ヴォンシコフスキ氏にインタビュー

– エドヴァネックスは創業から40年ですが、エドヴァルトさんはそれ以前からガラス加工の分野で働いていらっしゃいます。この一見不安定なビジネスは普遍的だと思われますか。

– ガラスはいつでも需要がありましたし、これからもそれは変わらないでしょう。しかし、これだけの期間市場で活動していくのは大きな挑戦でしたし、今もその難しさはあります。時代とともに、人々やその需要も変わり、市場はそれに応じて動いていきます。私たちは常に新技術やトレンドを追いかけていかなければなりませんが、それは家庭用ガラス製品に関するものだけです。さらに、市場に“氾濫する”廉価で品質の悪いガラスとも戦わなくてはなりません。古くからこの仕事に携わるものとして、この状況は見るにたえません。ポーランドの人々に、ポーランド製品とその品質の良さを認めて欲しいと思います。例えば、一番小さいグラスも美しく、普遍的で大変機能的に仕上げることができるのです。ポーランドの各家庭に、一夜のパーティーだけでなく、数世代にわたって使える価値のあるガラス製品が行き渡ることを望んでいます。

 

– エドヴァルトさんはドロフチャのご出身です。生まれ育った町には、工場などはなかったようですが、家を離れてガラス製造を志したのはどうしてですか。

– 両親は、私のおじであるスタニスワフが作るガラス製品を非常に尊重していました。おじは、ワルシャワ近郊のヴォウォミンにあるガラス産業中等専門学校で働いていました。そしておじは、その専門学校に入らないかと提案してくれました。卒業後に得られる仕事は、比較的安定しているように思われましたので、私は反対しませんでした。卒業後はクニツェ・ジャルスキェのガラス工場で働き始めました。その後、生まれ故郷のルブリン県に戻り、ヘウムにあった“ミラ”という工場で働きました。数年後、今度はウッチ近郊のラドムスコに移り住み、現在はもうありませんが、“ラドムスコ”ガラス工場に勤めていました。しかし、ある時自立して働きたいと思い立ちました。当時の年齢にしては、かなり経験はあったと思います。14の時から働いていましたからね。1977年、ワルシャワ近郊のセンコチン・ノヴィで、小さなガラス研磨工場を始めました。当時はクリスタルガラスの加工品が流行っていましたから、私たちもそういったガラスの装飾や研磨のみを請け負っていました。数人の従業員を雇って、経営は順調でした。

 

– しかし、じきに大きなビジネスプランを抱えてルブリン県に戻ることになりますね。

– 理由はいくつかありますね。より会社を発展させたいという思いももちろん、家族のこともありました。妻の仕事の関係でラドムスコに残っていた妻と子供たちを連れてきたかったんです。それ以前は週末しか会えませんでしたから。そして、ガラス研磨以上のことをやりたいという野心もありました。自分の工場で作ったガラスで勝負したかったんです。ですから1977年にこれまでの工場を売り払ってロスソシュに土地を買いました。買った当時は、古いあばら家と牛小屋があり、そして2メートル以上イラクサが生い茂っているだけの土地でした。まず、工場建設の許可を取るために1年を費やしました。地元の党関係者の反対にあい、工場建設が始まったのは85年でした。念願の窯から最初のグラスを作ったのは87年10月のことでした。立入検査もたくさんありましたし、猜疑の目も向けられました。原料の特性も異なっていました。当初は、近隣の乳製品加工施設から仕入れたガラス瓶を溶かして使っていたんです。

 

– 1989年の自由選挙とそれに続くポーランドの資本主義化は、個人経営者にとっては、好ましくもあり、困難な時代でもあったと思いますが。

– 私たちを取り巻く状況は劇的に変化していき、その中で活動するのは簡単ではありませんでした。工場開設から3年は大きな問題と戦っていました。ガス代は非常に高かったですし、借金と利子の返済に追われていました。しかし、産業用ガラスの需要は非常に高まっており、顧客は数週間もガラスの入荷を待つこともありました。私たちは一昼夜に1トンのガラスを生産していましたが、これはだいたいグラス6000個分にあたります。当初従業員は18人でしたが、91年には80人に膨れ上がっていました。工場規模の拡大を受け、新技術を導入しました。そして、700キロほど離れたボレスワヴィエツの近くにあるオシェチュニツァという場所から原料の砂を取り寄せることにしました。ここの砂はポーランドでは最高品質として知られています。同時に、色付きのガラスやすりガラスの生産も行うようになりました。

 

– そうした問題を乗り越えて、エドヴァルトさんの工場から、グラス、コップ、そしてドイツで人気のジョッキが生み出されました。緑色の持ち手が特徴的ですね。

– このジョッキのおかげで経済的な問題から抜け出すことができました。ドイツのバイエルン、ラインラント両地方では、ワインを飲むのにこういったジョッキが欠かせません。彼らは長年ルーマニアから輸入していましたが、チャウシェスク政権崩壊後、次なる生産者を探しており、92年に私たちに依頼が舞い込みました。私たちは、少しの不安と大きな期待を持って、この件を受注することにしました。この大口注文は、国外の顧客との協力関係を築く、未来への大きな一歩でした。私たちは同時に工場規模を拡大していきました。経営は軌道に乗り、研磨工場と梱包用ダンボール工場も始動しました。

 

–ポーランドのガラス産業は、時代の変化とともにどのように変わっていったと思われますか。

– ポーランドには長年のガラス製造の歴史があります。13世紀から14世紀にかけて最初のガラス工房が誕生し、18世紀には最初のマニュファクチャが始まりました。かつてはルブリン県にも多くの工場があり、ポーランド国内でも第3規模を誇っていました。現在それらの多くは閉業しています。例えば、ソスノヴィエツにある家庭用ガラス製品工場連合”Vitropol”では30年前には4万人が働いていましたが、現在は7千人程度に縮小しています。もう一つの問題は、ガラスの製造・加工技術を教える学校がないということです。私たちは毎年ドュッセルドルフのガラス見本市に参加しますが、ドイツ中から学校で学ぶ生徒がやってきます。ドイツのガラス製造の伝統は息を吹き返しているように思われます。かつては、製造技術ではドイツが世界をリードしていましたから。ポーランドには職人を養成する機関がありません。私たちは従業員を自ら教育し、彼らがその技術をまた新しい世代に伝えています。生産を拡大したくても、技術者が少ないためにできないという状況も経験しました。

 

– 毎日のルーティンは決まっているのでしょうか。

– そうですね。毎日4時半に起きて、コーヒーを飲んでから出勤します。工場に着いたらまず全体を自分の目で見て点検します。窯を一目みれば正常かどうか分かりますね。人生の大半はここで働いていますから。どんな小さな不具合も全体に影響することがあります。工場は私の家ですし、従業員は家族ですね。彼らからは「おやじ」と呼ばれています。

 

ダニエル・ヴォンシコフスキ氏にインタビュー

– このガラス工場は、ダニエルさんが子供のころからありましたよね。でも、当初は違う人生設計をされていたとか。

– ラドムスコに住んでいたころ、休暇になるとロスショスの父のところへ遊びに行っていました。遊んだり、手伝ったりして、すごく楽しかったのを覚えています。3歳か4歳の時から、父の事務所で書類に判を押していました。ガラス作りの技術は小さいころから目にしていましたし、すごいなあと思っていましたが、違う職業に就きたかった。人文系で、人前で発言するのが好きでしたから、自然に法律を学ぼうと思いました。両親はあまり賛成してくれませんでしたが、父をヴォウォミンの専門学校に行かせたおじがサポートしてくれました。法学は、ワルシャワ大学で学ぼうと決めました。法律家という職業は私に合っていたようで、法廷は居心地がよかったです。司法試験にも合格したのですが、やぱりガラスへの愛が勝ちました。ある日私のところに父が訪ねてきて、「帰ってこい。仕事がある」と告げたんです。私はロスショスへ帰り、そして後悔しませんでした。エドヴァネックスは大変なビジネスですが、やりがいもあります。そこで、法律の知識が役に立ちました。基礎的な法律の知識は誰にとっても大事だと思います。

 

– お父さんと働くのはどうですか。

– “ざらざらした友情”とでもいいましょうか。私たちはよく似ていますし、同時に全く似ていないところもあります。私たちは発展を望んでいますが、革命は望んでいません。仕事の分担についてはっきり分けるのは難しいですね。少なくとも、そのことはあまり考えなくても済んでいます。仕事が立て込んでいるときは、工場でお互いの顔を見ないこともあります。父はガラス作りの伝統技術を持っていますし、私は何年も新しいアプローチを会社に持ち込んでいます。90年代初頭、父の反対を押し切ってファックスや携帯電話のような新しい機器を導入したことを覚えています。現在ではいささか古い話ですが、顧客と連絡を取り合うためには必要なことでした。

 

– エドヴァネックスの未来をどのように考えていますか。

– 市場にある需要を追いかけていくことが重要であると考えていますから、瓶などの製造工程の一部を自動化する方向で動いています。ガラス製造は芸術であるという信念もあるので、原材料に関する知識も必須です。現在80%の製品が国外市場向けに作られていますが、シンガポールやアメリカといった市場もこの中に含まれています。工場も必要に合わせて、順次拡大しています。高いデザイン性もアピールするため、トレンドの動きを追うように努力を続けています。例えば日常生活に溶け込んでいるソーシャルメディアを利用していますし、最近はブログも始めました。顧客の利便性を図るため、ネットショップおよびポータルサイト(www.szklanydom.pl)も開設しました。このサイトの目的は製品および新しいデザインのプロモーションです。デザイナーを取り巻く環境整備も重要です。

 

– 「ルブリン・モダニズム・デー」への参加もそういった理由からでしょうか。

– 私たちの代表は、工場創設時から支えてくれているガラスデザイナーであるグラジナ・ウノルトが務めてくれます。面白いことに、グラジナ自身もルブリン共同住宅団地に居住しており、その団地で自身の作品を制作しています。これは私にはルブリンのモダニズムにおけるイコン的存在のように感じられました。さらに、世界的に知られるデザイナーであり、私たちの協力者でもあるヤン・シルヴェステル・ドロストおよびエリカ・トシェヴィク・ドロストも招待しました。私たちはルブリン建設の700周年を記念した皿のデザインコンテストを開催し、ヤン・ドロストが審査員を務める予定です。彼を招いたパネルディスカッションも行い、数十年に及ぶ彼の作品やヨーロッパのガラスデザインへの貢献を紹介する予定です。彼は、ガラスに対して敏感な芸術家でありながら、生み出す作品は機能的で普遍的でもあります。そして、デザイナーから安くて扱いやすい素材とみられていた型板ガラスを用いた作品を長らく制作してきました。5月19日はぜひ「モダニズム・デー」に足を運んで、スカンディナヴィア・デザインやスウェーデンでの経験が彼の後年の作品にどう影響を与えたか、またゼンプコヴィツェ・ベンジンスキェにある工房“Zębkowice”での40年の経験などを聞いていただきたいと思います。

 

– ヤン・ドロスト氏のデザイン、“Rotor”「ローター」シリーズのモデルは定番商品になっているようですね。

– “Rotor”シリーズは表面のらせん模様が特徴です。時代を問わないデザインが人気で、ファンの間では共産主義時代に作られた製品がオークションサイトで取引されているようです。知らない人も多いようですが、私たちが単に“らせん”と呼んでいる“Rotor”シリーズは私たちの工場でまだまだ生産されています。ヤン・ドロスト氏のデザインは、工業製品のガラス、つまり私たちにとって最も価値がある製品のコンセプトに組み込まれているのです。私たちは美しく、実用的な製品を評価します。父も新しい模様のデザインを考えることがあります。

 

– そうなると好みについて質問したくなりますね。ポーランドの人々はよくガラス製品を買い求めますか。

– どんな製品かによりますが、ガラス製品はよく売れていると思います。一番人気は、大量生産される安い製品ですね。あの某北欧デザインのチェーン店で売られているようなやつです。しかし、最近は意識の高い消費者も増えてきています。手作りの美しいガラス製品のファンも一定います。こういった消費者に私たちの製品でインスピレーションを届けたいと思います。その反面、すべての人に良心的な価格で良質な製品を買っていただくこともできると思っています。私のささやかな夢はポーランドの各家庭に一つは私たちの工場で作った製品を置いていただくことです。

 

– ガラスは分解に2千年かかることから、環境に負担がかかるという環境学者もいますが。

– 明らかな間違いです。砂と自然材料で作られるガラスは自然に還ります。もちろん、ガラス瓶やを森に捨てるわけでもありません。本当に環境に悪いのはプラスチックです。また、環境への優しさから考えると、ガラス容器は食品を保存する容器としては最高です。健康に気を配っている人々は、プラスチックではなく、ガラスの瓶で水を飲んでいます。

 

– ずばり、ガラスとはなんですか。

– ガラスとは、一種の錬金術です。ガラス製造は単なる技術的なプロセスであると感じる人もいるかもしれませんが、すべては原料、特に砂の品質に左右されるのです。私たちはロスサシュから700キロほど離れたドルヌィ・シロンスクのボレスワヴィエツから砂を取り寄せています。ここの砂は最高です。そのほかに、ガラス作りには炭酸ソーダ、炭酸カルシウム、炭酸カリウム、1450℃達する温度、技術者の勘が必要です。ガラスの色は少しの加減で劇的に変化します。溶融の行程では、はっきり言ってすべてが重要です。最後まで、望んだような色が出るかわからないのですが、このプロセスはいまでも私を惹きつけてやみません。

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